昭和50年12月4日           御理解               第4節

此方金光大神あって天地金の神のおかげを受けられるやうになった 此方金光大神あって神は世に出たのである神からも氏子からも両方からの恩人は此方金光大神である。金光大神の言うことに背かぬやうよく守って信心せよ。まさかの折りには天地金の神というには及ばぬ金光大神助けて呉れといえばおかげを授けてやる。

まさかの折りには金光大神助けて呉れというとこだけは、皆が金光様とお縋り致しますけれどね、金光大神の言うところに背かぬようにというところが出来ずしては此処のところが生きて来ない訳です。
それは先日からも頂く様に改まり研けと例えばいわれ、改まりもせん研きもせん、それでもやはりお取り次ぎを頂いておかげを受けておる。だから改まる事に一心にならない本気にならない、そういうところがありますね。
けれども本当におかげを頂く、本当にお徳を頂いて行くというためには、改まらなければ、研かなければ、一心を立てなければ、勿論一心を立てるということ、神様え向かうということは金光大神の言うことに背かぬようにという事に、一心であり、背かぬようである。
それが皆さんの場合は、出来よらんなりにおかげ頂きよんなさる様ですが、どうでしようか。そしてまさかの折りは金光大神とそりや言ひはおんなさる、それでもやっぱりおかげは受けるです。
けどもそれではね、あの、本当な事にはならないと思います。
此の方金光大神あって神は世に出たと、此の方金光大神は、神からも氏子からも両方からの恩人だと。
私は最近自分の信心に本当に素晴らしいと、自分で思はして頂く事はね、もう金光大神、生神金光大神様という事を称えるときに、本当にですね、これは実感として、本当に恩人だという気がするんですね。
生神金光大神様のおかげで、天地金の神様のおかげが受けられる様になった、これは金光大神がおかげを下さる訳ぢゃないですからね、おかげを下さるのは天地金の神様ですから、けれどもその、おかげの受けられる天地金の神様のことを取り次いで下さり、教えて下さったのは、此の方金光大神なのです、ですからこの金光大神が本当に、これは生神金光大神、天地金の神一緒たくりに称えるだけで、金光大神様は、に対してまず恩人としてのお礼が言える、そして天地の親神様のおかげが受けられる様になったと、いうことに対してまた、天地金の神様に日々神恩報謝の心を捧げる。
それがね言葉には表現出来ませんけれども、何十年信心させて頂いとりますけれども、最近の私が称えさして頂く生神金光大神はもう違う、もうとにかく違うです。その内容を言うならば、恩人生神金光大神という事だと思うです、唯ね、称え言葉の様に、天地金の神、生神金光大神と一緒たくりに、そりや天地金の神と同根とまで言われるのですから、それでも良かったんですけれども、最近の私はそうじやないです。
もうはっきり生神金光大神をまず恩人として、真からお礼を申します。そしておかげを受けておる事のお礼をまた天地金の神様にお礼を申し上げます。そこかね最近そういう感じというか思いが大変強くなって来てです、初めて金光大神の言うことに背かぬ様と言うことが、生きて来るのぢやないかと思うです。恩人金光大神が言うて下さる事だから、守らにやおられんのです。何をおいても恩人からの頼みであるから、聞かにやおられんのです。
これは私の最近感じる信心です。
昨日の梅の実会が三時半までですから、引き続いて、朝の教話の研修を三十分間やります、皆先生方、朝の御理解を頂いとりますのを一通り聞かせて頂くのです。皆やはり熱心に研修にとり組んどりますから、皆それぞれに素晴らしいところを頂いて、素晴らしい表現、素晴らしい短い文章に皆まとめとります。
中に先日ここえ修行にあがっとります、今村和子さんがまとめておるのを聞かせて頂いて、思わず、中、私はそれを聞きながらね、まだすんどらなかったけれども、そう、それだよというて此処から言うた事でした。
皆が朝の御理解を研修してどんなに分かったというだけでは、値打ちはないですよね、ああ今日の御理解それは素晴らしい表現、皆つかみどころというのは掴んでました、昨日の御理解。
和子さんはやっぱり同じですけれども、一番初めにこういう事を書いているのです、親先生がああ言われるから、神様がこうあれと願うておられるから、昨日の御理解になっとるのです。もう私はそれを聞いた時にですね、所謂やる気充分という事を感ずるでしようが、そのやる気充分という事我です、皆欠けておるのです。素晴らしい御理解ぢゃった、ああ有り難かった、こげな御理解は初めて聞いた、というだけがね羅列されとるだけです。
それは誰だって初心忘するべからずと言われますがです、修行に来らして頂いたばっかりですから、それこそ心がもういうなら求めてる、一生懸命であるという事が私は書いておるその全文に、現れおる気が致しました。
昨日でしたか一昨日でしたか、西岡先生が末永先生に短冊が一枚余っとるから先生、あなた何か一筆書いて貰いなさい、親先生から何か書いて貰いなさいというたからお願いしますというて、短冊を一枚持って来ました。
それで私は、杉のおばあちゃんに書いて差し上げたのを、書かせて頂こうと思ったけれども、あれは結局おばあちゃんに対しての事でしたから、神様にお願いさして頂きましたら、惰性に流されるなということを頂きました。惰性に流されるな。
段々信心がながく続いておりますと、どうしても惰性に流されるのです。
ああこげなこっちゃいかん、こげな事ぢゃいかんと思いながら一遍その癖なら癖がつきますと、それを繰り返していかんいかんと言いながら流されてしまうのです、私は信心にはね、惰性に流されるということがね、生き生きとしたおかげの受けられない本になると思うです、自分の心にも生き生きとしたものが湧いてこないです。唯惰性につながるおかげは頂い取りましてもです、心の中に生き生きとした弾んだものが生まれて来ないです。
いうなら日に日に新たといはれるのは、この弾んだ心の事だと思うのてせす、サアという心だと思うです。ですからあの三代金光様が御自分の事をおっしゃっとるのに、日に日にが新た出ございますとおっしゃった、日に日に新ただということは、普通並大抵のことでは頂ける事では絶対ないです、必ず惰性に流れます、流されます。
いうなら本気で申しますなら、金光大神の言われることに背かぬように、という行き方を身につけて行かんと、新たなものは生まれて参りません。
もう信心の鮮度の落ちた信心は、本当はつまらんです、値打ちは無いです。
どんなによい信心だというても。
それは魚やら、果物と同じ事です、フレッシュである事が生命です。野菜デモ、お魚でも、果物でも、信心も同じです。だから如何に新たなものをです、如何に新たなものを頂く。
私ども御祈念の座に出らして頂く時にです、その今日申します様に、生神金光大神様を本当に大恩人として本当に大恩人として、それはもう今申しますように言葉としては表現出来ませんけれども、今まで曾てない生神金光大神様が、何か生神金光大神天地金の神と一緒くたに有り難うございますといひよった様な感じがする。けども最近は生神金光大神さまという事をです、神様からも恩人でおありなさる、そういうことは私共にはいわば関係のない事ですけれども、私共の恩、私の恩人は生神金光大神様だという風に日に日に新たな、本当に中身のいっぱい有り難いというもののつまった生神金光大神が称えられる時です。これは私が金光大神に背かぬ様にといわれるものを頂いておらなければ、こんな新しい、こんな斬新な、生神金光大神様えのお礼は言はれないといつも思います。唱え言葉になり所謂マンネリ化した、生神金光大神、天地金の神では、もう本当の助かる事の用には立ちません、そこんところを言はば末永先生に神様は教えて下さったんぢゃないかと思うです。
だからこれは末永先生の事だけではない、各自が果たして生神金光大神とこう唱えておるが果たして、天地金の神様と同じ様な事ぢゃないかと、いうならその天地金の神様が天地に通ずる様な天地金の神様かというと、そうでもない、唯いうとるだけ唱えとるだけではやはり本当の事ぢゃない。
新たなものがあるときにです、例えば昨日皆さんにそれをいって、読んで聞いて貰いたい様にまあ思いますけれども、昨日和子さんが纏めておる文章はもう本当にやる気充分で、生き生きとして、皆さんと掴んどるところは殆ど同じ事、けれども本当にそれに取り組んで行じますというものが、その読みあげる中にそれが感じられたです。
それは親先生がああ言われるから、神様がああ願うておられるから、それに応えさせて貰う、おおというやる気充分なものがそこに滲み出て来るというところに、私は今日の御理解に金光大神まさかの時には助けてくれというところに、この生き生きとしたおかげが立ち現れる。それには金光大神の言うことに背かぬ様にという事は、今日私が皆さんに聞いて頂きました様なです、内容を持つものであり、ためにはです、金光大神がああ言われるから、それに本当に取り組んでゆく姿勢というものが、生き生きとしたものが、出ておるのではないかということを今日は、聞いていただきましたです。
最近私は生神金光大神が本当に私の大恩人として、生神金光大神、天地金の神様と、続けたくりには行かれない、そういう実感と、だからこそその大恩人だと感じるからこそ、大恩人の言われる事、それがよし無理であっても嫌とは言はれん、という心が非常に深くなりました思いです。
そこにです生神金光大神様と唱えれば、そこに生神金光大神様の取り次ぎの働きが起こって、天地金の神様のおかげが受けられるという様になります。御理解と頂いて有り難い、ああ今まで初めて聞いた御理解、ああ成る程成る程というのでなくて、それを頂くいわば実行する、守らして頂く気充分という意欲を持つためにです、生神金光大神、大恩人、が大恩人であるということを、いうならば親先生なりせばという、親先生を大恩人として頂ける信心、大恩人の言われるのに右左は言はれん、それこそ大恩人の言われる事であるから、昨日の御理解で言われる、信心は私の命だ、または命以上だ、だから金光大神が命をくれと言われれば、命をも惜しまないといった様な、大恩人だからこそ感じられる、そう感じられるからこそ、昨日の御理解を思い、また今朝の御理解を引き続いて頂いて、素晴らしいだけではいかん、それをやる気充分というものがなからにやいかん。
ためには本当に親先生をどう頂いておるか、あなたの金光教の信心をです、あなたにとってはどういうものか、それはおかげを頂くからお参りしよるというのではなくて、金光大神そのものが、金光大神は私にとって大恩人、お道の信心は私の命といはれる様なものもです、その大恩人と感じて初めて、それが出来るのぢやないかと思います。一つやる気充分を作らして貰はにやいけません。マンネリ化してる自分に気づかせて頂いて、所謂金光大神の言われる事に背かぬ様にというところを、それこそ泣く泣くでもひとつ辛抱しなくてはいけません。     
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昨日梅の実会で話した事でしたけれども、ある本を見せて頂きましたら、約束は五分前にといふのに引かれました。だからこの本を読む気になったのですけれども、ここのところに眼がついた、だからこのところを皆さんに聞いて頂いて、例えば一時から始まりますその一時の、どんなことがあっても五分前にはという、これがあなた方の信条になる、一生涯それが貫かれる、たらそれが素晴らしい事になるだらうと私が申しました。
約束の五分前、それがもう私の信条だということになったら、五分十分遅れたっちゃよかよかちゅうごたる信心ぢゃ、たとえばならそういう事がです、親先生がそれを実行されておられる、親先生がそれを願うておられるから、と例えば恩人であると本当に皆さんが思われるなら、実行出来ない事はないですね。
私は朝の御祈念前、三十分前には出る、二時からの私の御用の時間ですけれども、一時半には必ず出る、いや十二時頃出る事もある。だから三十分も一時間も前に出ろいう事ぢやないと約束よりも心に神様をこう誓った事をです、斬新なやる気充分です、約束の五分前、もう約束の五分前もうこりや難かしいことぢやないと思うです。それをなら親先生が言われるからという様なこと、そういうやらうと思えばすぐ出来る様な事からね実行することです。もうよかよか御理解に眼に会えばよか、例えば御祈念でもです。そういう事では金光大神のいう事にず一っと背き続けとるという事になるのぢやないでしょうか、それが自分の信条になるのですから、もう容易い事になるです。
初めの間はバタバタしました、初めの間一生懸命努力しましたけど、それが自分の信条になってしまうときにです、なら私は朝の三時半に出て来る事は、さほど難かしい事ぢやない、しかもその三十分が、とてもこよない私にとっては有り難い時間出あるということに、段々なって来たと云うことです、やはり新たなものがなからなければ出来んと思いますけれども。本当に守らして頂こうと思えば守られる、そこからでも行じられる事をです、何とはなしにそれを惰性に流されてしまう。
金光大神の云うことに背かぬ様に、それを例えば一事でも二事でも実行して、はじめてまさかの時には、天地金の神というには及ばん、金光大神助けてくれといえば、おかげを授けてやるというおかげならです日頃、云うことを聞いておるから、また神様も云うことを聞いて下さるのですから、これは本当のおかげです、云う事を聞かぬなりに神様にだけ云う事を聞いて貰うといった様な信心がどの様な結果、どの様な信心かということは皆さん、考えればすぐわかる事です。
桂先生はそれを神様に借金になるおかげだという風にいうておられますですね。どうぞ。